無人通信

森のほねほねさんから無人通信

『妹よ』(無人通信 13)

みな、妹のところへでかけていった。

 ぼくは、扇風機の風にあたりながら、ひとり床によこたわって、できるだけどこでもないところをみていた。

 外から、ドーン、ドーン、ドーンと音がした。頬骨に、ぼんやりとその震動がつたわった。

 しばらくしてから、起きてベランダにでると、向かいの棟と棟とのすきまに、とおくの町であがる花火がみえた。

 すこし風がふいた。

 もう二、三発をみて、ぼくはもどり、カーテンをひいた。しゃがみ、それから、またすこしずつ横になった。

 目のさきに、毛髪がおちていた。

 なぜ、床にぬけおちたたったいっぽんの髪の毛は、それだけでこんなにもけがらわしいのだろう。

 彼女の髪も、けがれになりかわるか。

 妹の髪はなめらかに、こぶりなあたまをくるむ。

 だれか、彼女の髪を撫でたものがあっただろうか。梳いたものが、つかんだものが。

 やがて、花火はおわった。よその家がかけたさまざまな風鈴の、きりんきりんというのがきこえてきた。なんて華奢な音だろうと思った。

 にぎれば、こわれてしまいそうじゃないか。

 いつか、着替えの途中をぬすみみた、よこへならんだ妹の肩は、あまりにうすく、ガラス板のようだった。

 産毛に食卓のひかりのたまがやどって、金色にやわらかく、かがやいていた。

 ぼくたちみなとちがう、甘い、すずやかな果物をわったにおいがした。

 肌のにおいだったのかもしれない。

 壁越しに、隣人がエアコンのリモコンを操作する音がした。

 ぼくは、立っていって、夜空にむかって窓をしめた。

 そして、ふと、星をみるひとたちのことをかんがえた。

 星や月のはなしをする同級生や先生たち。よくみえた星のはなし、帰り道のあかくて不気味だった月のことなど。

 ぼくは星をみない。夜の空をみあげる思いがない。

 どんなときに、かれらは星を眺めるだろう。月の明るさを頼りにしたことなど、ぼくにはない。

「いま、みて、きれいだよ」と長電話の最中に教えてくれたひともいた。

 ぼくの妹、おまえも星をみるのがすきか? そうなら、もしもそれがうそでも、ぼくは、そのことを、すごくいいと思う。

 

 妹よ、こんなことがあった。

 ぼくたちは、その日の午後、そっと抜けだして、「病院前」からバスにのった。

「うみまで」

「うみまで!」

「海まで?」運転手のおじさんはいった。「海までねえ、ここからじゃあ、うん、まあ、それなりにかかるよ、お金もね」

 おまえは、しろい麻のシャツをきていて、そのしたの肌がうすもも色をしているのを、ぼくはみた。

 となりにすわるおまえのからだが、こわばっているのがつたわって、ぼくは、ぼくがまちがったことをしているような気持ちになった。

 途中、バスは、その近所のひとびとがそだてたひまわりのあいだの道を、くぐるようにとおった。

 ひまわりの群れは、首をかしげてぼくたちを見咎めているのか。

 あまたの、くろいひとつめに怯えて、ぼくは、息をとめた。

 もっとはやく、はやくいけ、スピードだせ、とこころのなかではげしく思った。

 

 妹よ、あんなことは、みんなぼくの夢だったのかもしれない。

 ちいさく、ながい波が、ぼくたちのほんのちかくまできて、ひいていく。

 しろいあぶくのかたまりは、風の音のような、おまえや、もっとちいさな子どもが、ねむるときにつく息のような、ほんとうにしずかな音をたてた。

 ぼくは、ひざにのせたおまえのこめかみに、貝殻と錠剤を、じゅんにかさねていった。

 塔がくずれるたびに、おまえはくうくうわらった。

 くすぐったいと云うそのぽろぽろとした声こそ、ぼくにはくすぐったかった。

「耳には、ぜったいに、ぜったいに、いれないでよ」そういって、耳へあてる手についていた砂のつぶが、きらきらとひかっていた。

 おまえのほほやまぶたは、どんなにだまっていても、かすかにうごいていて、ぼくの塔は、どうしてもうまくたてられない。

 ぼくは、じっと汗をかいた。

 妹のひたいやくびすじに、やわらかく、ほそい清潔な髪の毛がぬれてはりついていた。

 ひざにのせた、妹のあたまのおもたさを、ぼくはいまも覚えているつもりだ。

 その熱をぼくは覚えている。ぼくのからだと、妹のからだとのあいだで、とじこめられた熱を、ぼくは思いだせる。

 でも、ほんとうのことだろうか。

 たとえば、ぼくたちは、あれからどうしてかえったのだろう?

 ぼくには、こたえることができない。

 妹よ、ねえ、あれは、ぼくのみた夢なのか?

 

 夜は更けていった。だれもかえってこなかった。

 どこかへ、身をひそめていたカナブンがとびたって、だれかが玄関へ運び込んだまま、タイヤの空気がぬけていった妹の自転車に、とまった。

 まだ、この自転車が駐輪場に出入りしていた年の、夏休みの夜、ぼくたちは、ふたりで夜のまちのなかを、ちいさなサイクリングにでた。

 ながい坂をくだっているとき、サドルがとつぜんに下がり、驚いたぼくは、思わず「うわあっ」と、おおきな声をだした。

 妹は、急ブレーキをかけて、おおわらいした。

 ぼくは恥ずかしさに、すこし涙がでそうな気持ちで、わらった。

 きっと、おまえがいちばんわらってくれたときだったと思う。

 そのサイクリングのおわりに、ぼくたちは真夜中の住宅街のなかで、みどりのひかりに、ぽうっとうかぶ熱帯魚屋をみつけた。

 はなれたところから、その店をながめて、つぎははいってみようと云いあった。

 妹の横顔の、ぼくへみせたほうは、蛍光する磨き石のようで、そのいっしゅんのまま、ぼくのむねのうちでかたまった。

 そして、暗い上り坂へむけた、ぼくからみえないもういっぽうは、そのときすでに、おかされはじめていたのかもしれない。

 妹よ、その予感に、おまえはどんなきもちでいただろう。

 妹、おまえにふれるだれをも、ぼくはゆるせないように、ここへかえらないおまえそのひとさえ、ぼくはゆるすことができなくなりそうだ。

 のろのろとしかうごかない、ちゃちな甲虫を床にはたきおとして、ぼくはまた、だれかのかえりをまつため、横になりにもどった。

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